[10]ボルツマン -天才と不安の影-
オーストリアの理論物理学者。気体分子運動論に基づいて熱力学第二法 則の基礎付けを与え、ひいては統計力学形成の基礎を打ち立てて物理学 の発展に画期的な貢献。1844年2月20日、ウイーン生まれ。父は 収税官。当時のウイーンは東欧の”パリ”。1866年ウイーン大学卒。 数学・物理学教授としてウイーン、グラーツ、ミュンヘン、ライプチヒ の各大学を歴任。1894年以降ウイーン大学の理論物理学教授。ライ フ・ワークとして「気体の分子描像」の確立をめざす。第一級の仕事で あるにもかかわらず、当時は全く理解されなかった。原子の存在に関す る実験的証拠が欠如していたために、学会からも「原子・分子は仮想物」 「哲学的に不健全」などと攻撃された。1906年9月5日イタリアの トリエステ近郊ドウイーノで失意のまま没(自殺)。
ボルツマンの研究は学生時代のマックスウエルの論文との出合いに始まり ます。ボルツマンは他に先駆けてマックスウエルを高く評価し、その理 論に深く心酔したようです。実際、それらから研究のヒントを得て、マッ クスウエル-ボルツマンの法則やボルツマン方程式などを導きました。

ボルツマンはひどい近視で、おまけに性格はたいへんな「塞ぎの虫」でし た。当時既に主要な物理学者の一人として数えられていたにも関わらず、 皆から見捨てられる不安をいだき、しかも居場所を転々としていました。 現実には、数々の大学から名誉学位を受け、アカデミーの会員にもなって いました。また、60才の誕生日には弟子や友人が記念論文集を出版する ということもあったのですが、不安の影に常に脅かされていました。

ボルツマンは芸術家タイプの人間でした。また、文章家でもあり、詩人の シラーを愛好していました。とくに、ピアノが上手で、家庭で音楽会を開 いたりしました。さらに、ウイーンの大オペラ劇場の席を家族のために常 時貸切りとしていたということです。

ライフ・ワークである分子運動論については、周囲の無理解に悩み、論敵 との応酬に疲れ果ててしまったようです。もうあと数年存命であれば、原 子の存在が実験的に証明され、ボルツマンの独創的な業績が広く世に認め らることになるのですが、それを待たずして自らに幕を下ろしてしまったこ とは誠に残念なことです。

現在ウイーンにあるボルツマンの記念碑には、有名なボルツマンの原理

S = k logeW
が刻まれ、失意の天才のゆるぎなき業績を讃えています。