[8]カルノー -熱力学の曙-
フランスの技術者・物理学者。熱サイクル(カルノー・サイクル)の 研究で熱力学の誕生に大きく貢献。1796年6月1日、パリ生まれ。 父はフランス革命5人委員会のメンバーの一人。生後数カ月のとき、 国外追放。3年後ナポレオンの軍事大臣として復職。その後まもなく 引退。不確実な世の中にあって、数学や力学の本なども書いていた父 は息子の初等教育に携わることを楽しみとしていた。1812年エコ ール・ポリテクニークに入学。1814年卒業。この頃、ナポレオン 帝国は衰退。ヨーロッパ各国がフランスに侵入。カルノーもパリ郊外 で戦う。1819年に退役するまで、フランス軍の将校をつとめる。 その後、円熟した創造期に入り、優れた蒸気機関の設計のための研究 を続けた。1832年8月24日コレラにより若くして没。
カルノーが本格的に熱の科学的研究に取り組んだのは、1819年 に軍を退役した後のことでした。軍ではあまり評判が芳しくなく、 新設の参謀本部への転属を機に退役し、それ以降円熟した創造期に 入ります。カルノーはおとなしくて口数の少ない青年でしたが、音楽 や科学技術についての興味たるやとどまるところを知りませんでした。 実際、社会人向けの物理や化学の公開講座に参加したり、著名な物理学 者で成功した産業家のクレメント-デソームとの議論にこころを踊らせ たりしていました。

カルノーを捉えていた問題は、「どのようにしたら優れた蒸気機関を 設計できるか?」というものでした。当時、蒸気機関は実用段階に入り、 いろいろな仕事に利用されていましたが、まだ効率の悪いものでした。 また、フランスはイギリスに対して技術的にはるかに遅れをとってい ました。特に、イギリスは正規の科学教育を受けていない小数の天才 たちの活躍によってめざましいの進歩を遂げていました。カルノーは この現実に対してはがゆい思いをしていました。ところで、これらイ ギリスの技術者たちは、実践的・応用的方面ではたくさんのデータを 採り、いろいろな技術的な改良を試みていたのですが、蒸気機関の原 理的・本質的な問題については特に考えようとはしませんでした。 カルノーは、むしろそのような技術的な問題を避け、「蒸気機関の効 率」について、その本質を問うことから始めたのでした。カルノーは、 それこそがフランスが遅れを取り戻すための方向であることを確信し ていました。

カルノーの研究は、機械技術的な詳細に拘るのではなく、むしろ熱力学的 過程の本質に直接迫ろうとするものでした。実際には、熱を水などと同じ ようなひとつの実体として捉え、水力の利用との類推を使って議論を進め ています。それによると、熱が高温のボイラーから低温の復水器に滴り落 ちるとき、ちょうど水車の場合と同様に動力を生じるということになって います。実は、この考えは明らかに誤っていました。しかしながら、 この考えに基づいて導き出された結果の多くは全く正しいものでした。特 に、

「理想の熱機関の効率は、熱の媒体如何にはよらず、高温熱源の温度 と低温熱源の温度のみによって決定される。」
との結果は、熱機関の効率に対する最も基本的な洞察を与えており、その後 の熱力学の発展にとっての決定的な貢献となったのでした。

ところで、これらは学会で発表され、新聞にも掲載されたのですが、反響 は意に反して小さかったようです。それには、いくつかの原因が挙げられ ます。ひとつには、当時学術論文の流通が大変悪かったことが挙げられま す。また、蒸気機関先進国のイギリスからみて「フランス人にそんな研究 ができるはずがない。」というような一種の偏見があったことも事実のよ うです。結局、この時のカルノーの偉大な業績は、彼がコレラによって若 くして世を去った2年後の1834年に同じフランスの鉄道技師クラペ イロンによって世に紹介されるまで、およそ10年近くものあいだ歴史の 闇に埋もれてしまう運命にあったのでした。

科学の歴史の流れからみて、カルノーの生きた時代は蒸気機関についての 科学理論が早晩打ち立てられなければならない時期であったのですが、蒸 気機関先進国のイギリスにはそのような研究を進めるための理論的な訓練 を受けた技術者がおりませんでした。当時、そのような訓練を課すことの できるところはカルノーの母校であるフランスのエコール・ポリテクニーク だけでした。カルノーは18世紀以来のフランスの応用科学の伝統から多く のものを受けとり、それらを携えて天才的な発見へと導かれたのでした。こ とに、カルノーの発見のキーワードである「効率」と「サイクル」という2 つの概念は、それぞれ応用科学者と応用力学の研究をしていた父ラザール・ カルノーから引き継いだものでした。