[5]ホイヘンス -ニュートンの影にかくれた天才-
- オランダの数学者、天文学者、物理学者。1629年4月14日ハーグ生ま
れ。父親は外交官・ラテン語学者・詩人。著名な人物との家族ぐるみの交流
があり、幼少時、ホイヘンスの幾何学の才能にはデカルトも感心。1645
年にライデン大学に入り、数学と法律を学ぶ。とくに、デカルトの方法(機
械論的な説明)に共鳴。そのような方法が科学にとって本質的であることを
早くも見ぬいていた。卒業後、ロンドンやパリに滞在して研究。その間、兄
とともにレンズ磨きの新しい方法を考案して望遠鏡の改良を試み、自作の望
遠鏡で1655年、土星の衛星タイタンと環を発見。翌1656年、オリオ
ン大星雲を観測。また、天文学者として精密な時間測定が必要となり、振り
子時計を発明。1658年、「時計」を公刊し、名声を得る。1666年、
ルイ14世に招かれて、フランス科学アカデミーの創立メンバーとなり、1
681年までパリに居住。最優遇の生活環境を得て、1673年に主著「振
り子時計」を公刊、「振り子の等時性の証明」をはじめ、彼の力学について
の諸研究をまとめた。1678年、「光についての論考」を発表。有名な<
ホイヘンスの原理>を提案、光の波動説をもとに反射・屈折・複屈折などの
光学現象を説明。ただし、公刊されたのは1690年のこと。1681年、
重病のためオランダに一時帰国。しかし、支援者であったのルイ14世側近
コルベールの死(1683年)およびナント勅令の廃止(1685年)など
により、新教徒であったホイヘンスは再びパリに戻ることが出来ず、最晩年
の5年間は健康を損い、孤独と憂鬱のうちに、1695年7月8日生地にて
没。
1689年のこと。ホイヘンスはロンドンを訪れ、ニュートンに会いまし
た。そして、王立協会において重力についての自らの理論を講演しました。
公衆の面前でニュートンと論を争うようなことはなかったのですが、ライ
プニッツとの書簡などから見ると、重力についてのニュートンの考えには
納得しておりませんでした。もとより、ニュートンの主著「プリンシピア」
の持つ数学的な独創性に賛辞を惜しむ訳ではなかったのですが、ニュートン
の理論には重力の原因についての力学的な説明が欠けていることが受け入
れ難かったようです。1690年に発表された論文「重力の原因について
の議論」で、ホイヘンスはデカルトの渦理論を使って重力の力学的な説明
を行なっています。このように、単なる現象の記述だけでは飽きたらない
性向は、同じ年に発表された論文「光についての論考」でも大いに発揮さ
れ、光の本性についての力学的な究極説明にこだわっっていたようです。
しかし、そのような力学的な説明の可否はともかくとして、ホイヘンスの
発見したいわゆる<ホイヘンスの原理>は反射や屈折の法則を極めて美し
く明解に説明でき、ニュートンの説明よりもはるかに優れていました。実
際、今では現代科学への最も輝かしい独創的な貢献の一つに数えられてい
るのです。また、ホイヘンスは数学者としても傑出した天才でした。ニュ
ートンは、当時古くさいと思われていた総合的な方法へのホイヘンスの嗜
好をむしろ賛美していました。このように、「ある種のミクロな力学的機
構を仮定し、それらの複雑な相互作用を通じてマクロな法則を導く」
というアプローチは、実は大変に現代的なもので、いわゆる<複雑系の科
学>の視点とも一脈通ずるものがあります。