ケルヴィン卿はもとの名前をウイリアム・トムソンといいました。34 才のときに行なった大西洋海底ケーブルの敷設事業の功績によって、ヴィ クトリア女王からナイトの称号を授けられました。そして、勤務するグラ スゴー大学の近くをながれるケルヴィン川に因んで、以後ケルヴィン卿と 名乗ることにしたということです。
ケルヴィン卿は大変に早熟で、わずか7才にしてグラスゴー大学の父の 数学の講義に非公式に出席していたほどでした。とくに、学生が難しい 問題を考えているときに、「パパ、僕に答えさせて下さい。」と発言し て、一部の学生の憤激を買っていたということです。一方、数学的な才能 に恵まれていたばかりではなく、バランスのとれた知的アクテイヴィテイー を兼ね備えていたようです。
成人したのちに述べているのですが、12才になるまでに子どもが学ぶべ きこととして、自国語を正確かつエレガントに書くこと、さらにフランス 語・ラテン語・ギリシャ語・ドイツ語などに通じていることを挙げ、それ らを通じてことばの意味への意識を高め、その上で論理学を学ぶことを勧 めています。このことは、現在でも変わらない教育の原点を指し示してい るように思われます。
また、ケンブリッジ大学時代には、ボートの第一漕者をつとめたり、音楽 部の創設メンバーとしてフレンチホルンを演奏したりしていました。勉強 のかたわら、スポーツや芸術を楽しんでいたようです。むしろ、それらの ことは勉強にも大いにプラスになったと述べています。
とくに、ケンブリッジはお気に入りの場所だったようで、グラスゴー大学 教授となった後も、夏学期のはじめの6〜8週間はケンブリッジで過ごし、 数理物理学の研究を行なうかたわら、8オール・ボートを漕いだり、大学 オーケストラで第二ホルン奏者をつとめたりするのが常でした。「スイス に行くよりもケンブリッジに行くほうが大きな喜びを感じる」とも述べて います。
ケンブリッジに行かない年は友達と海外旅行をし、ヨーロッパを何度も訪 れています。また、当時としては異例なことに、アメリカに3度も旅行し ています。大変に旅行好きだったことが伺われます。
日常生活では、学者としてはめずらしく、周囲の人々と親しく交わり、その ような交わりを通じて実験や講義で使う新しい技術のヒントを得ていました。 生来の勘のよさと先見の明を身につけていて、何でも手掛けたことに成功す るという稀な能力の持ち主でした。商業に従事したとしても、間違いなく大 成功を収めていたことと思われます。
工学者としては第一級の発明家で、特許料や顧問料を得て経済的にも豊か だったようです。家庭生活も含めて、まさにすべての点で満ち足りた生活を 送り、死の1〜2カ月前まで研究を続け、科学者が受けたいと思うあらゆる 名誉を手にして、83才の生涯を閉じたのでした。
生涯を通じて最良の生き方が出来た稀有なる存在といえるでしょう。