[14]マックスウエル -自然におけるアナロジー-
イギリスの物理学者。1831年11月13日、スコットランドのエジ ンバラ生。電磁場の理論における基礎方程式、いわゆるマックスウエル 方程式を発見するとともに、それに基づいて「電磁波」の存在を理論的 に予言。物理学に画期的な貢献。また、気体分子運動論や色覚の理論な どでも決定的な貢献。ニュートンとともに物理学史上に輝く巨星。父は 弁護士であり資産家。8才で母と死別。生涯を通じて父に愛着。湖と丘 に囲まれた地で育ち、川遊びにふけった幼年時代。成人の後もたびたび 帰って過ごす。エジンバラ・アカデミーの学校に入学するが、臆病で内 向的な性格もあって都会の学校になじめず、田舎くさい服装や振るまい から「うすのろ」のニックネーム。一方、はやくから数学の能力に秀で ており、父の勧めで、エジンバラの優れた科学サークルへ参加。実際、 14才で「卵形曲線の書き方」という論文を発表。少年の書いたものだ とは誰も信じなかった。エジンバラ大学に3年在学し、19才までに2 つの論文をエジンバラ王立協会へ提出。1850年秋、ケンブリッジ大 学ピーターハウス学寮へ進学。当時、有能な数学者たちが集まっていた。 まもなく、奨学金を貰うためにトリニテイー・カレッジへ。1854年 優秀な成績で卒業。1856年アバデイーンのマーシャル・カレッジの 自然哲学教授に。そこからなら、エジンバラの父のところに行って長時 間過ごせると期待したが、その前に父が死去。4年後、キングス・カレ ッジと統合してエジンバラ大学ができることになり、準職員だったので、 失職。ロンドンのキングス・カレッジの教授に。5年間在職。最も充実 した時期。電磁気学や分子運動論の研究を発表。1865年体に疲れを 感じて退職。エジンバラに戻り、静かな田舎暮らしを楽しみながら論文 執筆。時々、卒業試験官としてケンブリッジへ。1871年、乞われて 最初のキャベンデイッシュ教授に。キャベンデイッシュ研究所の設立に 尽力。その後、死の数週間前までの5年間、キャベンデイッシュの原稿 整理に携わり、ケンブリッジ大学出版局から「ヘンリー・キャベンデイ ッシュの電気学研究」を出版。貴族であると同時に天才物理学者でもあ ったキャベンデイッシュの偉大な業績を世に紹介、その名声を不動のも のとした。1879年11月5日、母と同じく癌により48才で没。

マックスウエルの打ち立てた「電磁場の理論」は、粒子を基本物質と考 えるニュートン力学に対して、場を基本物質と考える革命的な着想によ って見い出されたものでした。ところで、そのような着想は一体どこか ら生まれたものなのでしょうか?

マックスウエルは、その数学的な才能もさることながら、物理的な想像 力にも優れていました。実際、ファラデーの提案した電磁誘導の法則の 意味をすぐに理解し、それに数学的な表現を与えることができました。 マックスウエルの思考方法でとりわけ優れていたのは、アナロジー(類 推)を用いて思考を進めるということでした。1856年に出された「 自然におけるアナロジー」という論文では、そのような思考方法を公に しています。

方法は明解で、全く異なった物理学の問題の間に、数学的な相似性を見 つけ出すというものです。つまり、1つの理論構造を数学的な参照枠と して捉え直し、その適用範囲を可能なかぎり押し広げて自然現象の理解 に適用しようというもので、自然を「構造」として捉えようとする、あ る意味ではたいへん現代的なアプローチとなっています。

電磁場の理論の発見との関連でいうと、流体力学との形式的なアナロジ ーがキーポイントです。たとえば、磁力線と流線のアナロジーです。ま た、磁場と渦とのアナロジーから、電流と磁場の関係を導いています。 ここでは、現象の裏に横たわる数学的構造こそが、物理を理解するとき の本質を司っていることがわかります。

結局、マックスウエルその人のなかで、優れた数学的な才能と実際の自 然現象から決して遊離しない強固な現実感覚とがうまくバランスし、ま さに両者の絶妙なバランスによってこそ、この世紀の画期的な発見が導 かれたと言えるでしょう。ゆったりした自然のなかでたっぷり遊んで育 ったことや大好きな父の勧めで優れた科学サークルへ参加したことは、 そのような人格の形成に本質的な役割を果たしているように思われます。