マイケルソンは、その経歴においても業績においても、物理学の歴史の上 で特筆すべき存在といえましょう。まず第一に、彼はヨーロッパから米国 に渡った移民の子として育ちました。マイケルソンのパイオニア的な生き 方はそのような生い立ちによるものと考えられます。また、マイケルソン は大学教育を受けず、海軍兵学校というアカデミズムとは無縁なところで 高等教育を受けております。在学中、光学や音響学など、物理学に関して は優秀な成績でしたが、航海術などは平均点よりかなり下でした。また、 勉強の他にも、絵画やヴァイオリンやボクシングなどを楽しんだようです。卒業して、母校の講師として教鞭を取っていた頃、自分のライフワークと なる<光速度の精密測定>という課題に出合い、実験を始めました。とく に、マイケルソンは手作りの装置をうまく利用することに長けていたよう です。さらに、当時米国航海歴編纂局長であったニューカムとの出合いが、 その後のマイケルソンの科学者としての歩みを決定的なものとします。ニュ ーカムはマイケルソンの才能を高く評価し、実験の援助をしました。実験 は幾何光学を用いた改良フーコー法によって行なわれていましたが、限界 は明らかでした。抜本的な進展を期するには、波動光学の研究が不可欠で した。そこで、ヨーロッパに留学して波動光学を学ぶよう勧めたのもニュ ーカムその人でした。
ドイツでは有名な生理学者・物理学者のヘルムホルツのもとで研究しまし た。驚くべきことに、マイケルソンはワシントンでニューカムとの実験を 終えてヨーロッパに渡り、ヘルムホルツのもとで研究を始めた僅か数週間 の間に、光の波動性についての基本原理をマスターしたのみならず、すぐ に光の波動性を応用した最もすばらしい装置の一つである干渉計を発明し ました。そして、ライフワークである<光速度の精密測定>の次のステッ プに向けて予備的な実験を開始しました。実際、米国に帰国する頃には、 光速度として299,853 km/sという値を得ていました。この値は、 その後約30年間、最良の値として不動のものでした。
干渉計の技術を確立したマイケルソンにとって、次の興味は<エーテル中 での地球の運動>を測定することでした。エーテルというのは、光を伝達 する媒質として当時仮定されていた物質で、太陽と地球の間の真空中にも 存在すると考えられていました。地球は太陽の周りを秒速30 kmで 公転しています。そこで、地球の運動方向とそれと垂直な方向とに同時に 光を発し、ある距離の所で鏡で反射して戻ってくるそれらの光の到着時間 差を測れば<エーテル中での地球の運動>が分かるはずです。実験は18 87年頃からクリーヴランド大学のモーリーと共同で進められました(マ イケルソン-モーリーの実験)。結果は不可解で、到着時間差は全くありま せんでした。この結果はエーテル理論に真向から矛盾し、学会全体に大き な衝撃を与えました。後にアインシュタインはこの実験結果を<光速度不 変の原理>として認め、現代物理学の時空概念の基礎である<特殊相対論 >を打ち立てたのでした。
マイケルソンはこの他にも、干渉計を応用した超精密測定を行っています。 例えば、長さの基準作り、星の直径、地球の潮汐などです。これらはすべ て、その科学的意義の重要さは第一級のもので、超精密測定装置であるマ イケルソンの干渉計によってはじめて実現できたものなのです。そして、 マイケルソンのこれらの業績に対して、1907年ノーベル物理学賞が与 えられました。ところで、<特殊相対論>を導いたマイケルソン-モーリー の実験は何故か授賞理由になっておりませんでした。マイケルソン自身も 授賞講演ではそのことに触れていません。マイケルソンにとって、あまり 重要には感じられなかったのかもしれません。実際、マイケルソンは、< 特殊相対論>が学会全体に受け入れられるのを待ってはじめて、大学の講 義などでも議論していたということです。
物理学者ミリカンは、マイケルソン-モーリーの実験について「19世紀 に行われた最も偉大な2つの実験のうちの1つ」と賞賛し、アインシュタ イン自身も「マイケルソンは物理学を新たな方向へと導いた。言い替える と、彼の驚異的な実験結果は相対論の発展の魁となった。」と明言してい ます。ある立場からすると、「正にその通り」です。一方、別の立場から すると、マイケルソンの干渉計の発明こそがすべての生みの親で、そのこ とこそが最も高く評価されるべきである、と言うことも出来ます。実際、 超精密実験装置である干渉計は現在でも科学研究の最先端で応用され重要 な発見を生み続けているのです。マイケルソンはそのことを見抜いていた のかもしれません。