[12]オーム -不遇の前衛科学者-
ドイツの物理学者。1787年3月16日、バヴァリア地方エルランゲ ン生。電気伝導に関する「オームの法則」を発見。電気の理論と応用に 大きな影響を与えた。父は熟練工で科学に強い関心。1812年、高等 教育を受けさせるべく、エルランゲン大学へ入学させるが、学資難のた め1年で退学。1813年スイスで数学教師。1817年ケルンの高校 教師となり、9年間数学・物理学を教えた。この頃、フーリエの書いた 熱の伝達についての論文と出会い、「熱の流れが温度差と伝導率によって 決まる」という法則を電流に適用することを着想。1826年手作りの 器具を使って実験し、いわゆる「オームの法則」を証明。この年の4月 から1年間高校を休職し、この結果を著書「ガルバーニ電流の数学的研 究」として著したが、学界から激しい批判を受け、高校を退職。以後6 年間ベルリンでアルバイト生活。1833年、ニュルンベルクの工芸学 校教師。1839年、同校長。一方、外国での評価はたいへん高く、1 841年、イギリス王立協会から「コプリー・メダル」を受け、在外会 員となる。1849年、ミュンヘン大学員外教授。1852年、同正教授。 1854年7月7日、ミュンヘンにて没。

現在、およそ電気について勉強した人で「オーム」の名前を知らないも のはないと思われます。電気伝導に関する「オームの法則」は電気の基 本法則ですし、電気抵抗の単位はオームです。

ところが、「オームの法則」という画期的な発見は、当時のドイツの学 界では冷笑の対象になりこそすれ、全く評価されませんでした。その頃 のドイツではへーゲル哲学が全盛で、学問研究は高度に洗練されたエリ ートにのみ許された営みという考えが支配的でした。したがって、大学 を中退した高校教師の研究など、研究としては全く認めらなかったので す。実際、オームの著書に対して、「空想の産物」とか「いやしがたい 妄想」といったいわれのない批判が浴びせられました。それがもとで、 オームは高校を退職せざるを得なくなってしまいました。

一方、諸外国の学界ではたいへんに高い評価受け、1841年にはイギ リス王立協会から「コプリー・メダル」を受け、同時に在外会員に推さ れるという名誉に輝きました。その結果、ドイツの学界もいつまでも無 視することができなくなり、1849年になってようやくミュンヘン大 学員外教授として受け入れたのでした。

やがて、1852年には念願の正教授に就任。名実ともに自国の学界か ら自分の研究が認められた訳ですが、オームはそのわずか2年後に世を 去ったのでした。

オームは、当時の科学の前衛線にたって研究を推し進めた一流の科学者 だったのですが、正規のアカデミックな課程を習得していなかったため に、その研究がなかなか認められませんでした。つまり、当時の学界へ のパスを欠いていた訳です。言い替えると、正規のアカデミックなバッ クグランドを持つことが学者としての存在証明であったということです。

研究者集団とそれの持つ文化とが、アカデミックな課程の習得によって 維持・更新されているという事情は、当時も現在も変わるところはない ように思われます。オームにとって唯一幸いだったことは、当時諸外国 にあって同じように科学の前衛線で活躍していた科学者たち、たとえば ホイートストン、ファラデー、ヘンリー、レンツなどは、正当にも、彼 の研究をたいへん高く評価してくれていたことです。

「前衛の真価は前衛にしか分からない」ということなのかもしれません。