[2]パスカルの「パンセ」
フランスの数学者、物理学者、宗教哲学者。また、フランス散文詩の名手。 1623年、フランスのクレルモン・フェランの生まれ。父は貴族の出身、 数学者で国王の参事管。3才のとき、母と死別。以後、姉が母親がわり、父 は子女の教育に尽力。現代確率論の基礎付け、パスカルの原理の発見、宗教 における直観主義の原理の確立などで有名。病苦と長年戦い、39才で病没。
パスカルは幼少から天才を開化させ、「アルキメデスの再来」と言われまし た。11才のときには、食卓の皿を叩いて出る音の減衰に着目し、音響につ いての論文を書きました。また、12才でユークリッド幾何学の定理「三角 形の内角の和は2直角」を独力で証明しました。
ところでパスカルの父親は数学の魅力をよく知っていて、数学に夢中になっ てラテン語などの学習がおろそかになることを心配しました。そこで、15 才までは数学を教えないことにし、数学の書物をみんな片付けて、数学につ いて話すことさえもしませんでした。
そのように慎重な父親でしたが、独学で数学に目覚めたパスカルの天才に驚 き、涙を流して喜びました。その後は率先して数学を指導しました。父親の 参加している学会にも出入りし、16才で有名な「円錐曲線論」を発表し、 天才の名を揺るぎ無いものとしました。パスカルは博学の父親をたいへん尊 敬しており、学校へは全く行かず、論理学や物理学や哲学など、すべての勉 強を父親から学びました。
宗教の面では、家族は厳格なカトリック教徒でしたが、父親のケガを機にヤ ンセン派の深遠な考えに打たれ、家族を説得して回心しました。23才のと きのことです。一方、世俗的な関心からも離れられず、こころの中に葛藤を かかえていました。実際、科学的な興味は活発で、ガリレオやトリチェリの 理論を実験で確かめたりしました。有名な「パスカルの原理」はこの時期に 発見されました。そのほかに、父親の仕事を助けるために、計算機を発明し ました。また、高貴の婦人たちのサロンに出入りして、いろいろな人々との 交友を楽しんだのもこの時期のことでした。
31才のとき、宗教的生活に目覚め、32才でポール・ロワイヤル修道院に 入りました。そこで病苦に苛まれながら綴った書物が「パンセ」です。世に 流布しているパスカル伝説の一つに「深淵の逸話」があります。パスカルは 「自分のからだの右側に深淵がポッカリと口を空けている」のが見え、それ を恐れていつもからだの右側に椅子を積み上げておいたということです。こ のことの真偽は別にして、このような感受性が「パンセ」の主調低音をなし ていることは間違いないようです。時まさに近代科学の黎明期にあって、「 機械論的宇宙の絶対的な沈黙」(=近代の悲劇と限界の予感)に恐れおのの く孤独なたましいの調べが奏でられているによう感じられます。哲学者ニー チェは「パンセ」のことを「血で書かれた」書物の一冊と評しています。