子どもの頃、ギムナジウムで学んでいるときに、プランクは先生から「 エネルギー保存の法則」についての話を聞きました。先生は「屋根に持ち 上げて据え付けた石でも、いつか下に落ちれば、人に怪我をさせることも ありうる。」という例え話をし、仕事のエネルギーが保存することを説明 したのでした。プランクはこの話にたいへん感激しました。人間の知恵が まさに1つの奇跡であること、そして科学の営みが崇高な仕事であること を直感し、物理学者になろうと決心しました。ところが、子どものころに抱いた夢とはうらはらに、科学に憧れるプラ ンクにとって現実は失望の連続でした。大きな希望を抱いて入学した大 学では、物理学の先生から「あらゆる重要な発見は既になされており、 もう物理をやっても価値はないよ。」とまで言われてしまいました。折 り悪しく、当時はちょうど古典物理学の完成期でした。爛熟期の無気力 感が学界全体を暗雲のように覆っていたのでした。
プランクの育った家庭は当時のドイツでは特別な社会階級に属していま した。プランク家の人々は公正/清廉な気風を重んじていました。そし て学者や行政官を輩出し、国家への忠誠、法と正義に対する深い尊敬の 念を抱いていました。とくに、「自己修養と高い達成度」が一族のモラ ルでした。そのような家庭で育ったため、プランクはたいへんに素直で 順応性の高い性格を持っていました。この点では、独立独歩の自由な精 神の持ち主であったアインシュタインと対照的でした。
しかし、そのような勤勉で献身的な性格が幸いして、落ちこぼれにもな らずに学問の道を進んで行けたとも言えましょう。例えば、次のような 逸話が残っています。憧れのベルリン大学での講義は、プランクにとっ て、全く失望の連続でした。諸事多忙であったヘルムホルツの講義は準 備不足のために全く退屈なものであったし、反対に、キルヒホッフの講 義は用意周到に準備され過ぎていて、無味乾燥で単調、これもまた退屈 きわまりないものでした。それでも、プランクは先生と2人だけになっ ても勤勉に出席を続けました。後に述べていることですが、当時プラン クは自分流の読書で勉強せざるを得なかったということです。
プランクの学問への思い入れはたいへん深く、何としても一流の科学上 の足跡を残したいものだと考えていました。物理のほかに音楽が好きで、 ミュンヘン大学に入学当初は音楽家になろうと考えたこともありました が、自分の才能に見切りをつけ、物理の分野で一流になろうと決心した のでした。そして、他の人々が全く興味を示さない、既に完成された分 野である「熱力学」の研究に専心したのでした。勤勉で献身的な性格が そのようなたいへん保守的な選択をさせたと思われます。
興味深いことには、そのような保守的な頑迷さから、「エネルギー量子 」という革命的な概念が生み出されたのでした。プランクは、ボルツマ ンが当時提唱していた熱力学の確率論的解釈など全く目に止めてはいま せんでした。自分の発見した黒体放射スペクトルに対する正しい公式( 「プランクの公式」)の理論的基礎付けを考えていて、他の方法がどう しても見つからない状況に至ってはじめて、やむなくそのような確率論 的手法を利用したのでした。
ところで、プランクが展開した理論的基礎付けには、根本的な欠陥があ りました。とくに、エントロピーの定義に関して、ボルツマンのやり方 に全く従っておりませんでした。そのために、結果は全く正しかったの ですが、一般には受け入れられませんでした。これについては、後にア インシュタインによって、ボルツマンのやり方に従っても同じ結果が導 かれることが示されました。
家庭でのプランクは、起床してから就寝するまで、食事、ピアノ演奏、 散歩、研究など、まさに分刻みの日課を繰り返していました。それは時 計のように正確な規則正しい生活であったようです。また、起立したま まで研究をしていたということです。このように、ある種の徹底癖があ り、堅苦しさを感じさせるプランクでしたが、アインシュタインはその ようなプランクのこころの奥に「自然の中に調和と秩序を見い出そうと する魂の渇望」を認め、「われらのプランク」と親しみをこめて呼んで いました。