[19]レントゲン -ノーベル物理学賞第一号-
ドイツの物理学者。1845年3月27日、ライン地方レネップ生。 レントゲン線(X線)を発見。放射線物理学の創始者として、現代物理 学に大きな貢献。父は商人で仕立て屋。一人息子。幼い頃、母の郷里 のオランダへ移住。16才でユトレヒト工業高校入学。しかし、事情に より、放校処分。2年半工業学校に通い、9ヶ月間大学で哲学の授業を 受け、試験に合格。チューリッヒ工科大学へ入学。1868年、卒業( 機械工学士)。1869年、博士号取得。有名な音響学者クントの助手 になり、ストラスブール大学、ギーセン大学を経て、ビュルツブルグ大 学教授へ。1895年、レントゲン線(X線)を発見。1900年にミュ ンヘン大学教授となり、1920年まで勤めた。1923年2月10日 没。

レントゲンは、思春期に事情があって正規のコースから逸脱したいわゆ る「ドロップアウト」でした。高等学校に通っていた時のことです。 先生をバカにした生徒の名前を言わなかったことによって、放校処分を 受けたのでした。両親の落胆も大変大きかったようです。そこで当時の 慣例に従い、敗者復活を期して3年あまり勉強を積んだ後、試験に合格 して、スイスのチューリッヒ工科大学へと進学しました。大学では機械 工学を専攻しました。

チューリッヒでは、それまでの苦労とは打って変わって、のびのびとし た生活が待っており、勉強面でも社交面でも共に充実した青春を過ごす ことができました。実際、大学の授業をさぼって山や湖へ皆で遊びに行 ったりしました。また、愛妻のベルタと知りあって恋をしたのもちょう どこの頃のことでした。レントゲンは、「チューリッヒはすばらしかっ た。」と後年に述懐しております。

大学を卒業後、教授のクントに引き抜かれ、大学に残って研究を続けて、 翌年には博士号を取得しました。その後、クントの助手となり、一緒に ビュルツブルグ大学からストラスブール大学へと転任していったのでし た。その間、クントは常に友情と支援を与えてくれたのですが、正規の コースから逸脱したという経歴のために、長いこと教授職に着くことが できませんでした。それについてはレントゲン自身大いに落胆していま した。

ところで、レントゲンがX線の発見に繋がる研究を本格的にはじめたのは 1895年の秋、50才のときのことでした。ビュルツブルグ大学の教授 であったレントゲンは、その頃学界で注目されていた陰極線の研究に本格 的に取り組んだのでした。当時、おおかたの研究者は「陰極線の正体は何 であるか?」ということに主な興味を集中していました。ところが、レン トゲンはこれとは別の<説明できない現象>の存在にむしろ興味を持った のでした。それは、陰極線をガラス管の壁に当てた時にガラスが発光する <蛍光現象>でした。

レントゲン以前にも、クルックスなどが蛍光の存在に気づいていたのです が、特に注目されることはなく、<奇妙ではあるが付随効果に過ぎないも の>とみなされていたのでした。したがって、観測による緻密なフォロー アップなど望むべくもなく、ずっと埋もれた状態になっていたのでした。 この不思議な現象に対してレントゲンのとったアプローチは、<徹底した 記録>ということでした。実際、レントゲンは7週間にわたって、ありと あらゆる実験を行ない、17章に及ぶ膨大な実験記録を残したのでした。 このようなやり方は、ダーウインが「ミミズの研究」などでとったやり方 と基本的には全く同じで、まさに<記録による記述>を巧まずして実践し たものでした。

X線の発見を告げる最初の論文は1895年12月28日に発表されました。 興味深いことには、この論文は通例の物理学の論文と趣が大きく異なってい ました。というのは、「写真付き論文」の形で発表されたからでした。論文 では、写真と文章が互いに対照しあって、<X線の存在>についで相互に証明 するように構成されていました。陰極線の正体さえも未だ明らかではなかっ た状況では、議論よりも証拠によってすべてを語らせるほうが当を得たもの であることは明らかでした。この点に関して、レントゲンの立場は徹底して いました。実際、人から「X線を発見したとき、どのように考えましたか?」 と感想を求められたとき、レントゲンは「何も。ただ実験しただけ。」とそ っけなく答えたということです。

1901年にノーベル賞が設けられたとき、レントゲンはX線の発見の功績 によりノーベル物理学賞第一号になりました。しかし、万事に控えめな性格 であり、有名人になることを好みませんでした。そのため、授賞講演は行な いませんでした。また、バイエルン候からの貴族の称号を与える申し出もあ りましたが、辞退しました。また、ミュンヘン大学教授への招聘も渋々応じ たのでした。世俗的なことにも淡白で、X線についてのどんな特許も取らな かったのでした。

晩年、第一次世界大戦下のドイツで、充分な治療を受けることもできずに、 妻ベルタは病気で亡くなりました。その3年後、敗戦ドイツのインフレの真 只中、レントゲンは報われることなく世を去ったのでした。