レントゲンは、思春期に事情があって正規のコースから逸脱したいわゆ る「ドロップアウト」でした。高等学校に通っていた時のことです。 先生をバカにした生徒の名前を言わなかったことによって、放校処分を 受けたのでした。両親の落胆も大変大きかったようです。そこで当時の 慣例に従い、敗者復活を期して3年あまり勉強を積んだ後、試験に合格 して、スイスのチューリッヒ工科大学へと進学しました。大学では機械 工学を専攻しました。チューリッヒでは、それまでの苦労とは打って変わって、のびのびとし た生活が待っており、勉強面でも社交面でも共に充実した青春を過ごす ことができました。実際、大学の授業をさぼって山や湖へ皆で遊びに行 ったりしました。また、愛妻のベルタと知りあって恋をしたのもちょう どこの頃のことでした。レントゲンは、「チューリッヒはすばらしかっ た。」と後年に述懐しております。
大学を卒業後、教授のクントに引き抜かれ、大学に残って研究を続けて、 翌年には博士号を取得しました。その後、クントの助手となり、一緒に ビュルツブルグ大学からストラスブール大学へと転任していったのでし た。その間、クントは常に友情と支援を与えてくれたのですが、正規の コースから逸脱したという経歴のために、長いこと教授職に着くことが できませんでした。それについてはレントゲン自身大いに落胆していま した。
ところで、レントゲンがX線の発見に繋がる研究を本格的にはじめたのは 1895年の秋、50才のときのことでした。ビュルツブルグ大学の教授 であったレントゲンは、その頃学界で注目されていた陰極線の研究に本格 的に取り組んだのでした。当時、おおかたの研究者は「陰極線の正体は何 であるか?」ということに主な興味を集中していました。ところが、レン トゲンはこれとは別の<説明できない現象>の存在にむしろ興味を持った のでした。それは、陰極線をガラス管の壁に当てた時にガラスが発光する <蛍光現象>でした。
レントゲン以前にも、クルックスなどが蛍光の存在に気づいていたのです が、特に注目されることはなく、<奇妙ではあるが付随効果に過ぎないも の>とみなされていたのでした。したがって、観測による緻密なフォロー アップなど望むべくもなく、ずっと埋もれた状態になっていたのでした。 この不思議な現象に対してレントゲンのとったアプローチは、<徹底した 記録>ということでした。実際、レントゲンは7週間にわたって、ありと あらゆる実験を行ない、17章に及ぶ膨大な実験記録を残したのでした。 このようなやり方は、ダーウインが「ミミズの研究」などでとったやり方 と基本的には全く同じで、まさに<記録による記述>を巧まずして実践し たものでした。
X線の発見を告げる最初の論文は1895年12月28日に発表されました。 興味深いことには、この論文は通例の物理学の論文と趣が大きく異なってい ました。というのは、「写真付き論文」の形で発表されたからでした。論文 では、写真と文章が互いに対照しあって、<X線の存在>についで相互に証明 するように構成されていました。陰極線の正体さえも未だ明らかではなかっ た状況では、議論よりも証拠によってすべてを語らせるほうが当を得たもの であることは明らかでした。この点に関して、レントゲンの立場は徹底して いました。実際、人から「X線を発見したとき、どのように考えましたか?」 と感想を求められたとき、レントゲンは「何も。ただ実験しただけ。」とそ っけなく答えたということです。
1901年にノーベル賞が設けられたとき、レントゲンはX線の発見の功績 によりノーベル物理学賞第一号になりました。しかし、万事に控えめな性格 であり、有名人になることを好みませんでした。そのため、授賞講演は行な いませんでした。また、バイエルン候からの貴族の称号を与える申し出もあ りましたが、辞退しました。また、ミュンヘン大学教授への招聘も渋々応じ たのでした。世俗的なことにも淡白で、X線についてのどんな特許も取らな かったのでした。
晩年、第一次世界大戦下のドイツで、充分な治療を受けることもできずに、 妻ベルタは病気で亡くなりました。その3年後、敗戦ドイツのインフレの真 只中、レントゲンは報われることなく世を去ったのでした。