トムソンが物理学者となるには、いくつかの偶然が働いていました。1 4才になったトムソンは技術者志望でしたが、補欠者のリストがあまり 長いのを見て断念。やむなく、オウエンス・カレッジで工学・物理・化 学を学び、技術見習いをすることを選択。しかし、2年後に父が死亡。 学資難のために、技術見習いをあきらめて、工学の課程を終了しました。 このとき、幸運にも提出論文が入賞し、トムソンに奨学金と賞金が与え られました。そこで、物理に転向、再び勉強をはじめたのでした。物理担当のスチユアート教授は優れた教師で、ロンドン以外では当時最 大の物理実験室を持っていました。幸運にも、トムソンはそこで実験の 訓練を積むことができたのでした。そして、研究の結果を論文にまとめ て、王立協会へ提出しました。その論文が認められ、1876年20才 でトリニテイー・カレッジの給費生となったのでした。トリニテイー・ カレッジでは、物理学者になるための常道として、数学を専攻しました。
卒業後、キャベンデイッシュ研究所に入り、レーリー卿の指導のもとに 実験的研究を進めました。1984年、レーリー卿が引退。29才のト ムソンが後を継いで所長となりました。しかし、まだ若いこと、生まれ つき手先が不器用なこと、実験の訓練を受けていないことなど、その適 性に疑問を抱いた人もいました。
ところが、所長としてのトムソンは、有能な管理職であり同時に優れた 研究者/教育者として、皆の尊敬と信頼を集め、研究所の活動をかつて ない高さにまで高めたのでした。当時の研究所の雰囲気は、社交生活に 満ち、楽しく余裕のあるものでした。あるアメリカ人研究者は「午前1 0時前には誰もいなくて、午後6時以降は皆が帰宅してしまうような研 究所はアメリカではなまけものの集まりと思われても仕方ないのに、こ こでは素晴らしい研究がたくさん行なわれている。」と称賛しています。
トムソンの指導のもと、キャベンデイッシュ研究所では、職員や研究生 が自由に独立して活動する一方で、互いに敬愛の念を持ち、助け合って 研究を進めていました。トムソンは愛称をジェイ・ジェイと呼ばれ、誰 とでも尊敬と信頼を基軸とした親しい人間関係を結んでいました。また、 議論をしながら相手を遠慮なく批判することもありました。そのような トムソンの研究スタイルは、そのまま研究所全体のモラルともなりまし た。そして、研究所の研究活動は非凡なまでに高められたのでした。
若い研究生に対して、トムソンは、既に行なわれた仕事を読まずに、ま ず研究を始めてみることをアドバイスしました。とにかく自分自身の考 えを明確にすることが一番大事なことだと考えました。つまり、自分の 考えの核心がしっかりしていれば、他人の仕事に惑わされることもなく、 自らの動機をしっかり守り通せるはずだと考えたのでした。また、職員 に対しては、教育に携わることの大切さを訴えました。教育に携わるこ とは、とりもなおさず基礎を理解し直すことであり、研究者にとっても たいへん有用であると考えました。弟子の中からノーベル賞学者7人を 輩出したトムソンのオリジナルな発想の一端が感じられます。
トムソンは毎日の午後、自分の研究室でテイー・パーテイーを催しまし た。大学出であれば誰でも参加出来るもので、社会問題や政治問題など を議論することを楽しみました。トムソンは、政治・社会・文学・スポ ーツ・科学一般、と大変幅広い興味を持っていました。「ジェイ・ジェ イが興味を持たない問題はない。」と言われたほどでした。そして、話 し上手であると同時に、なによりも聞き上手でありました。このように して、研究所のサロン的な雰囲気がトムソンを中心として醸成されてい たのでした。