[18]ハイゼンベルク -量子力学の祖-
ドイツの物理学者。1901年12月5日、ドイツの大学町ビュルツブ ルグ生。量子力学の創設者の一人として、現代物理学に大きな貢献。ま た、量子力学の重要な帰結として、不確定性原理を導出。父は高等中学 校の古典語教師でギリシャ語学者。幼い時から神童と呼ばれ、とくに数 学的な才能をあらわす。他に、スポーツ、ピアノ、チェスが得意。17 才のとき、第一次世界大戦でドイツ敗戦。当時、高等中学校に在学。開 襟シャツと半ズボン姿の「くちばしの黄色い青二才」として、ある種の 理想を掲げた熱狂的な若者の運動に肩入れ。この頃、優秀な数学教師の 話を聞いて、日常的世界と数学的世界の密接な関わりに思い至り、自分 もそのような知的財産を増やすことに貢献したいと決心。数学や物理の 概論書を読んで勉強。微分・積分なども独学。しかし、原子の記述には 大きな不満。たまたま、同じ運動に加わりながら、物理学に熱中してい た1人の年長の学生と知り合い、ギリシャ・ローマの哲学やゾンマー フェルトの著書「原子構造とスペクトル線」などを紹介される。ゾンマ ーフェルトの本には、当時最先端の知識である原子の太陽系模型が載っ ており、強く啓発を受ける。卒業後、ミュンヘン大学へ。はじめは数学 を志すが、直観派のハイゼンベルクは厳密派の教授と折り合わず、やむ なくゾンマーフェルトのもとで物理学を学ぶ。ゾンマーフェルトのもと では第一線の研究課題(理論原子物理学と流体力学)を与えられ研究。 1923年、わずか在学3年間で論文「流体の乱流におけるポアズイユ 流れの安定性」を提出、博士号取得。PD助手として、ゲッチンゲン大学 のボルンのもとで研究。その後、ロックフェラー奨学金を得てコペンハ ーゲン大学のボーアのもとへ留学。1925年、枯草熱の療養のために 北海の孤島に滞在中、定常状態に関する問題を解くことに成功。行列力 学を提唱し、量子力学を創始。1927年、不確定性原理を発表。19 27年、25才でライプチッヒ大学教授に。当時、ドイツ最年少の教授 として評判に。以後、1941年まで在職。その後、ベルリンのカイザ ー・ウイルヘルム研究所所長兼ベルリン大学教授。第二次世界大戦後、 マックス・プランク研究所所長。1976年2月1日没。

そもそもハイゼンベルクは数学に興味を持っていました。それにはある 特別な体験が強く影響していたようです。それは、高等中学校で初等幾 何学を学んでいた時のことです。優秀な数学教師ヴオルフ先生の話しを 聞いて、突然「幾何学で扱う図形が一般的な諸公理に従うこと。また、 図形から読みとった結果について、諸公理を使って数学的に証明できる こと。」に思い至ったのでした。ヰタ・マセマテイカリス。まさに、ハ イゼンベルクの「数学への目覚め」といってよい出来事です。そして「 数学は日常的な経験と調和するもの」という確信が生まれたのでした。

次に、ヴオルフ先生の講義に刺激されて、ハイゼンベルクはもっと高い レベルの数学に独学でチャレンジを始めました。それはどんな遊びより も楽しいものでした。どんどん勉強を進め、物理法則と関係の深い微分 積分の計算まで進み、「ニュートンやマックスウエルの業績がギリシャ の哲学者や数学者の考えの延長であること」をはっきりと悟ったのでし た。このようにして西洋思想の源流にまで遡って行き、「古代の発見と 近代の発見の完全な同一性」を確認したのでした。ハイゼンベルク自身 の言葉によれば「この頃の数年間、自然との接触や機械いじりなどすべて を犠牲にして、ひたすら数学を勉強した」ということです。

物理へ興味が向くのは、高等中学校最後の2年間に入ってからでした。 ハイゼンベルクは、それまでに学んだギリシャ哲学や数学を通じて、ピ タゴラスのように、「数論的に調和した自然」観を抱いていました。「 物理学への目覚め」は、物理学の概論書を読み漁るなかで、そのような 自然観との衝突という形で起こりました。あるすぐれた古典物理学の概 論書を読み進んだところ、最後の何ページかに原子についての記述があ りました。ところが、それは非常に馬鹿げたもので、全く容認し難いも のでした。ギリシャの哲学者たちは「原子とは物質の最小粒子でそれ以 上分割できないもの」と考えていました。それがそのように複雑怪奇な 構造のものであるはずはなく、大いに憤慨しました。

ちょうどその頃、青年運動を通じて、同じように物理学に熱中している 一人の年長の若者と知り合いました。彼は、レウキッポスやデモクリト スの原子論、エピクロスの理論、ルクレチウスの「物の本質」などと精 通していました。また、近代物理学の概論であるゾンマーフェルトの著 書「原子構造とスペクトル線」を持っていました。この本には、原子の 太陽系模型が図示されていました。さらに、青年運動の仕事の暇潰しに プラトンの対話篇テイマイウスを読み、原子論の起源について深く啓蒙 され、「ギリシャ哲学を知らないで原子物理学を語ることはできない」 と確信したのでした。

1920年の春、ハイゼンベルクはひとりでミュンヘン大学のゾンマー フェルトの研究室を訪ね、「自分は理論物理学を研究したい」と申し出 ました。ゾンマーフェルトが「それはもっと後になって分かることで、 まず物理学一般を学ぶべきである」とアドバイスすると、ハイゼンベル クは「自分は実験を全くやる気がなく、波動理論と数学にしか興味がな い」と述べ、ゾンマーフェルトを驚嘆させました。しかしながら、試験 的に自分のゼミナールに出席することを許可したのでした。ハイゼンベ ルクはその後わずか3年で博士号を取得し、さらに量子力学建設へとそ の天才的な歩みを進めて行ったのでした。

ハイゼンベルクの行動は、一見、分別を知らない大胆不敵な振舞いに見 えますが、そこには誠実に自分自身やまわりの世界を見つめて生きる哲 学的人間の真実がありました。老大家ゾンマーフェルトも、それを直観 的に理解したからこそ、ゼミナールへの参加を許可したものと思われま す。思春期の多感な時期を通して、いろいろな偶然に助けられながらも、 哲学を手がかりにして「自分の足で立ち自分の目で物を見ること」を自 らのライフスタイルとして育み高めてきたことが、この非凡な才能の開 花に大きく寄与しているように思われます。